あ ら す じ

 

パイロット志望に挫折した主人公が
特殊な才能を生かして
フライトシミュレーターに出会うお話です

終戦直後の神田駅周辺は
木造家屋が密集する街でした

そこには
「トイレの花子さん」に登場するような
小学校があったんです


学校の屋上からは
昔の羽田飛行場を見通せました
房総半島すら遠望できたんです
東京湾の白波も見えてました


私が初めて飛行機を目にしたのは
そんな場所だったんです


この頃からビラ撒きの飛行機が
飛んで来るようになりました

つぎに私が目にした飛行機は
父に連れられて
藤沢飛行場で目にした
グライダーの飛ぶ優雅な姿でした

印象的だったのは
ベトナム戦争真っ盛り
厚木基地で目にした
豪快な戦闘機の数々でした

いつの日からか
私はパイロットを志してました
受験競争で
周囲がギクシャクする中で
我関せずで
パイロット自社養成試験に挑みました
筆記試験、適正試験とパスした私に
家系体質が原因
不合格に終わったことは
晴天の霹靂でした
人生で初めて味わった挫折

潜り込んだ夜学の世界で
教授のカバン持ちをすることに
教授から
自分の特殊能力を知らされます

教授のコネで
米軍のフライトシュミレーターを
体験します


一度は挫した
パイロットへの夢

仮想現実空間で
実現を追い始めたのです

今やゲームの域を超えた
ソフトや操縦機器が
手軽に手に入る時代となりました


仮想現実空間を
家庭で
飛びまわれるんです


ライセンスだって
シュミレーターで取得する時代です

ライン・パイロットの訓練も
シュミレーターの時代なんです


へそ曲がりの私が
やっと
夢を実現したお話です

 



 

小説の一部をご紹介しています

第三版 

お話は一九五0年代の後半に遡る。
当時、東京神田駅周辺では新築ラッシュが始まっていた。
新築とは言っても、バラックの改築と言った方がいいかもしれないが……。
それは神田駅の周辺で、三~四階建てビルの建築ラッシュに始まった。
当時、山手線のガード下は、権利を持つのか持たぬのか分からぬ輩が荷物置き場や寝蔵としていた。
時代の変化に敏感だった彼らは、そこから、屋台で身を起こし、やがては立飲み飲食街へと急速な変貌を遂げさせて来たのだ。

私が通っていた千代田区立千桜小学校は、そんな神田駅近くを通る昭和通りから、少し入った一角にあった。
周辺が、すべて焼け野原となったその地で、東京大空襲からも焼け残った、三階建のコンクリート校舎は、当時としては風格のある風情を残した建物だった。

私は、社会人になってからも、霞ヶ関にあった自治省旧庁舎を見るたびに、なぜか、この校舎を思い出したものだ。
とは言え、この校舎、当時で、築三十年にもなる古い建物だったし、あの大空襲を辛うじて免れてきたのだからして、割れ窓ガラスがあちこち目立ち、そこに古板があてられて、折角の広いガラス窓廊下から射しこむ筈の日差しは、とても十分とは言えない状態だった。
であるからして、その幅広廊下は、いつも薄暗く、夕方ともなると、あまり立ち入りたくない建物でもあったのだ。
まさに、そこは映画「トイレの花子さん」冒頭シーンを彷彿とさせる雰囲気を醸し出していた。
 そんな校舎ではあったが、俺達生徒の人気を集める一角があったのだ。
そこは、壊れかけた鉄扉から入り込める、校舎の屋上にあった。
重く錆び付いた鉄扉の隙間を、小さな身体でスリ抜けると、そこには、神田界隈を一望の下に見渡せる、別世界があった。
俺達にとって、そこは、東京を、いや、関東一円を見通せる別世界だったのだ。
当時、そんな場所と言ったら、神田駅のホームか、ニコライ堂が建つ丘ぐらいしか、この街に住む人々でさえ、思いあたらなかった筈だから……。
俺達にとって、そこは、自分達が暮らす街並みを、上から、いつでも確認できる場所だったのだ。
校舎の屋上は四階建てビルの高さがあったのだが、そこから見上げた空は、雲が異常に近く感じられたものだ。
そんな屋上に、周囲を水漏れで濡らす、給水タンクの据えられた塔屋があった。
そこは屋上に出る鉄扉がある、階段室吹き抜けの上に位置してたから、五階に匹敵する高さを持っていた事になる。
つまりは、学校中で、いや、当時の神田で最も高い位置にある、俺達専用の展望台だったと言うわけだ。

此処へ昇るには、タンク点検用の、半ば壊れかけた鉄製梯子を、恐る恐ると昇って行かねばならなかった。
しかし、俺達にとって、半ば、度胸試しの場所でもあったから、そんな怖さもなんのその……。
もちろん、学校は、この屋上に出ることさえも禁じてたわけで、ましてや、この給水タンクへ昇るなど、厳禁とされていた。
給水タンク塔屋の上は、三人が昇れば満員状態で、足元は漏れた水でコケが生え、滑り易く、危険この上ない場所でもあった。
しかし、それと引き換えにしても、此処から見渡せる景観は、俺達のみぞ知る、絶景だった。
そこからは千代田区の隅々ばかりか、それこそ東京中を見渡すことが出来た。
「神田駅前の近くから海が見えた」と言ったなら、今じゃ「ハッタ言うんじゃねえ!」と片付けられそうだが……。
そればかりか、富士山はもとより、大森海岸の先にある羽田飛行場さえも見通せたし、そこから次々と飛び立つ飛行機を拝むことが出来たのだから……。
この時代は、自動車さえ、まだまだ目にする機会が珍しくて、走っていたのは、アメさんの軍用車ばかりで、あとはガタガタの改造オート三輪や、自転車にオモチャのようなエンジンを付けた、カブと呼ばれるものがほとんどだった。
 飛行機なんて「空襲で、高い、高いところを飛んで、焼夷弾をばら撒いてったB29しか見たことねえ……」と、親父達が話してたのを聞いたぐらいなのだ。
それでも、この頃になると、偶に、街の上をビラ撒きに飛んで来る、飛行機というものの姿を、俺達も拝めるようになってはいたのだが……。

当時の羽田飛行場は、進駐軍が接収してて、やっと誕生したばかりの民間航空会社が、そこに間借りする場所でもあったから、主に軍用機が、それも爆撃機や輸送機に加え、偶に鮮やかな赤丸の描れた翼を目にするだけだった。
いや、待てよ? そう、そう。この頃だったかもしれない。
米軍払い下げのポンコツ機に、新聞社のマークをつけた、ビーチクラフトの前身の様な機体が、偶に学校近くの空へ飛んで来る事があった……。
まだ、東京タワーなんて、どこを探しても見当たらない時代だったのだ。
高い建物と言ったら、上野の森は寛永寺の五重の塔か、駿河台のニコライ堂、浅草寺のそれぐらいしか、存在してなかった時代のお話なのだ。
そんな空を、悠々と飛び廻る飛行機は、俺達の目に強烈な印象を残してくれた。